6月8日は県労福協定時社員総会です

2021年4月21日
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この前、正月を迎えたと思ったら、すでに新年度となりました。これから、県労福協及びフードバンクふじのくにの決算書類作成、県労福協監事監査(4月26日)、フードバンクふじのくに監事監査(4月27日)、地域役立資金運営管理委員会(5月13日)、県労福協決算理事会(5月14日)、フードバンクふじのくに定時総会(5月21日)と続き、6月8日の県労福協定時社員総会まであっという間です。年を取ると1年が過ぎるのがとても速く感じられます。

さて、プロ野球が開幕し、連日、熱戦が繰り広げられています。駿河総合高校出身で2年目でオリックスの遊撃手のレギュラーとなった紅林選手や静岡高校出身で西武ライオンズ外野手の鈴木選手など、県内出身者の活躍が楽しみです。コロナ禍でいろいろな制約がありますが、全試合を消化し、無事シーズン終了を迎えられることを願っています。

プロ野球といえば、今年2月、元ヤクルトスワローズ投手の安田猛さんがお亡くなりになりました。私のすこし上の世代で、若い人にはなじみのない選手かもしれません。早大から社会人野球の大昭和製紙に入社し、1970年の都市対抗野球では優勝に貢献し、最優秀選手賞に選ばれています。1971年秋にヤクルト(当時の球団名はヤクルトアトムズ)からドラフトで指名を受けています。そして、プロ野球入団後は、1年目の1972年に最優秀防御率と新人王に輝き、2年目の1973年にも最優秀防御率のタイトルを獲得しています。小柄ながら、コントロールを持ち味にした技巧派のサウスポーで、球のスピードは決して速くはありませんが、サイドスローから投じられるボールの制球力の高さから「ペンギン投法」という異名で親しまれました。

特筆すべきは、1973年に、81イニング連続無四球のプロ野球記録を樹立していることです。ちなみに、この記録は、阪神タイガースの田淵幸一選手への敬遠四球の後から始まって、同じ阪神タイガース田淵幸一選手への敬遠四球で終わっています。田淵選手はこの頃は本当に強打者で、私は田淵選手も大好きです。私は1975年に後楽園球場の巨人戦で田淵選手がホームランを打つのを一塁側内野スタンドから観たことがありますが、夜空に舞う高い放物線の打球は芸術的でした。なお、田淵選手も安田投手も背番号は22番でした。安田投手は、田淵選手が西武ライオンズにトレードされてから流行した漫画『がんばれタブチくん』の友人の“ヤスダくん”のモデルとしても人気を博しました。

1978年に、安田投手はヤクルトスワローズ初優勝の立役者となり、当時、東京で学生生活を送っていた私は大喜びしました。

1978年の日本シリーズ(ヤクルトスワローズVS阪急ブレーブス)は、ヤクルトの本拠地の神宮球場が学生野球のため使用できず、ヤクルトのホームゲームは後楽園球場で開催されました。私はホームゲーム全試合をスタンドで応援し、見事、4勝3敗でヤクルトが日本一になりました。第2戦では、ヤクルトの外国人選手“赤鬼”チャーリー・マニュエルが場外ホームランを打ちました。打球は、私の座っていたライトスタンドの真上を通過して場外に消え、そのあとで「ガシャーン」という大きな音が聞こえたのを覚えています。これまで、私が球場で観た中で一番大きなホームランでした。ちなみに、マニュエルは現役引退後、МLBの監督になり、フィリーズで2008年のワールドシリーズで優勝しています。

日本シリーズ最終第7戦では、大杉選手のポール際の大飛球がホームランと判定され、阪急の上田監督が1時間以上も抗議したことを覚えています。

技術の進歩のおかげで、先日、ネットでその画像をみることができました。今では、後楽園球場はなくなり、球場のあったすぐそばの位置に東京ドームが建っています。そして、大杉選手、上田監督、安田投手もみんな亡くなってしまいました。さみしい限りです。<MASA>


『フードバンクふじのくに』からのお願い

こくみん共済coop共済ショップ静岡店から食品をいただきました。たくさんのご支援、誠にありがとうございます。